公益財団法人 吉田秀雄記念事業財団 Yoshida Hideo Memorial Foundation

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「鬼の贈り物」

商業放送の実現に奔走

いま放送の世界では、BS、CS、ハイビジョンそして地上波デジタルの実現により、多様な未来像が描かれています。その多様な放送形態を支える柱ともいえる商業放送の豊かな可能性を予見し、未開の荒野を沃野に変えることに情熱を傾けた人物、それが吉田秀雄でした。

終戦直後の1945年(昭和20年)9月、政府は当時の逓信院(後の郵政省)が提出した「民衆的放送機関設立に関する件」という方針を閣議了解し、「日本放送協会(NHK)」による公共放送以外に、広告放送収入を財源とする株式会社による商業放送を認可しようという方針を打ち出しました。当初は、NHKのように一社で全国をカバーする商業放送局が想定されていたようです。
このような逓信院の意向に従って、同年12月、東京商工経済会(現東京商工会議所)の理事長であった船田中を委員長に、電通常務であった吉田秀雄を副委員長とする「民衆放送株式会社」設立準備委員会が設立許可申請書を提出しました。これについて吉田は、「アメリカの商業放送が、日本のNHKとちがった形態によって行われていること、そして、いま計画されている放送会社が、その類型だくらいのことはわかっていても、現実にどのような広告が、放送企業経営に関係するかなどのことになると、一切わからない。一つ電通に聞こう、吉田、お前きてくれというので、私が参加した。」(「この人吉田秀雄」永井龍男著 文春文庫)とその経緯を語っています。


しかしこの申請は、1947年2月、GHQが「現段階で商業放送は不適当」という決定を下したことによって中断、一方、「民衆放送株式会社」の申請の中心となった船田中が公職追放になるなど事態は難航をきわめました。その結果、船田に代わって吉田が設立準備委員長に就任、設立準備事務局も電通本社内に移されるなど、吉田は文字通り商業放送実現の推進役として大きな責任を担うことになったのです。

同年10月、GHQは一転して「私営放送会社の助長」という方針を示します。またそれまで、全国1局と考えられていた商業放送が地域単位で認可される可能性が高まったことから、全国各地で商業放送申請の動きが本格化しました。
1949年1月、先の「民衆放送株式会社」も関東地方をカバーする「東京放送株式会社」として新たに申請を提出、設立発起人には吉田秀雄が就任しました。

1950年9月には、全国で申請社数は72社にのぼり、東京地区だけでも28社が申請するという乱戦模様になりました。
郵政省は周波数配分上の必要から、東京地区で申請を出していた朝日、毎日、読売の新聞社系3社の申請の一本化に乗り出しましたが失敗、これを受けて吉田が新聞社系3社と「東京放送」の4社の一本化を進めました。吉田は粘り強い折衝によって4社の一本化に成功、1951年1月、「株式会社ラジオ東京」として免許申請を行いました。

1951年9月1日午前6時30分、名古屋の中部日本放送がわが国初の商業放送として第一声をあげ、同日大阪の新日本放送が放送を開始、吉田が精魂を傾けた「ラジオ東京」は、同年12月24日のクリスマスイブに晴れて本放送を開始しました。

こうして、吉田が夢見た広告放送を収入源とする商業放送の時代がいよいよ幕を開けました。しかし商業放送実現における吉田の功績は、単にそれだけに留まりません。
商業放送の導入に向けて、放送法の改正が検討され始めた1947年から、実際に電波を出した1951年までの間、吉田はあらゆる機会を捉えて商業放送実現のための環境整備と機運作りに取り組みました。
例えば、放送法改正を審議する国会の公聴会に公述人として出席し、商業放送の専門家として意見陳述を行い、その方向付けに大きな影響を与えました。 
また、商業放送開局の機運を高めるために、電通社内で商業放送・広告放送に関する調査研究を進めさせ、最新動向を全国各地の地方紙に提供、さらに「ラジオ広告研究会」を組織して、広告放送のテスト版を製作し大手広告主に試聴してもらうなど、広告放送について関係者の理解を深める活動も展開しています。

全国の開局ラッシュが本格化すると、吉田は申請者の中心であった各地方新聞社に対し、電通を通じて免許申請の手続きから、番組編成、番組制作の技術、営業の方法等に至るまでを全面的に支援、また出資協力はもとより必要があれば、地方局のスタッフとして電通社員を移籍させることさえ厭いませんでした。
商業放送の黎明期、広告の専門家としてその実現に関わった吉田秀雄は、いつか商業放送の仕組み作りから体制整備まで、新しい時代のマス・メディアの成立そのものを主導する、中心的な存在となっていたのです。