熊本から世界へ―震災前より強くなる

2024年6月27日 12:00 Vol.88
   
宮田 幸子
一般社団法人スーパーウーマンプロジェクト代表理事/ スーパーフラワー協会代表/ MICOHANA株式会社代表取締役
Sachiko Miyata
結婚・出産を経て独学でWebサイト制作を学び、制作会社勤務を経て独立。その後、離婚。2016年、熊本地震で仕事がなくなったシングルマザーたちと共に一般社団法人スーパーウーマンプロジェクトを設立、全国展開のビジネスを目指す。19年株式会社レイメイ藤井と共同でスーパーフラワー協会を設立。22年九州経済産業局主催の「九州デザイン経営ゼミ2022」に講師として登壇。23年ミラノコレクションに参加。同年MICOHANA株式会社を設立し、24年パリコレクションにデビュー。25年日本国際博覧会(大阪・関西万博)サプライヤー。

災害復興の際、優先事項の一つとして挙げられる被災者の就業支援。東日本大震災をはじめ多くの被災地で、手仕事や特産品などの新たな復興ビジネスが生まれてきた。しかし、それを持続して定着させることは大変難しい。
熊本地震を機に、全国展開のビジネスを目的に立ち上がった女性の団体がある。
代表者に、個人のスキルをビジネスにつなげるマインドや仕組みづくりなどについて、話をうかがう。
text: AD STUDIES photo: Kentaro Kase

熊本地震での被災、マイナスからの出発

— スーパーウーマンプロジェクトは、2016年の熊本地震を機に立ち上がりました。当時、宮田さんはどのような状況だったのでしょうか。

宮田 私は個人事業主として、Webサイト制作の仕事をしていました。クライアントは熊本県内の方がほとんどでしたので、同時にお客様の事業もストップしてしまいました。ほぼ完成していた仕事も、そのような状況の中では納品して請求を立てるわけにもいかず、そのまま立ち消えた案件もあって。

その一方で、全国のお客様を相手に ECサイトを運営していた知人が熊本の震災について発信すると、たちまち応援消費として売り上げが急上昇したのが対照的でしたね。それを目にしたとき「地元でしか仕事をしてこなかった私は、自分で何とかするしかないのだ」と悟りました。

— 誰にも頼れないところからのスタートだったのですね。

宮田 はい、震災が起きたのは4月で、子どもたちの学費をまとめて納めるタイミングでした。1年で一番出費がかさむ時期だったので、今それを支払ったら、次にいつお金が入ってくるのか、と不安でした。しかも2度の地震に見舞われ、3回目が来るかもしれない、と心配でたまらなかったです。

私はシングルマザーで、収入の担い手は自分一人でした。一時的に学費や家賃の支払いを待ってもらっても、まとまった仕事が入らなければ、滞納額が積み上がるだけ。「会社に属している知り合いは、手当や一時金が支給されているのに……」と心細かったのを覚えています。

自宅は無傷で、家も倒壊していませんでしたが、停電が2週間ほど続きました。やっと電気が通ったゴールデンウィークのある日、郵便受けに、国からの封筒が届いたのです。2011年の東日本大震災では寄付や義援金が支払われた、というニュースを耳にしていたのでちょっぴり期待して封を開けたところ、中身は車の税金の請求書。落ち込みました。“震災で止まったのは仕事と電気だけ”では、公的な支援などそう期待できないのだと。

   
熊本地震の翌年、スーパーウーマンプロジェクトでは“熊本女子”が案内する、熊本の観光地と震災を体感するバスツアーを開催。資金はクラウドファンディングで調達した。写真は熊本城の被災の様子(2017年1月21日)

— そこからスーパーウーマンプロジェクトが始まったわけですか。

宮田 はい。そんな状況をSNSで発信したところ、同じ境遇の方たちから反応がありました。本当にみな切羽詰まっていたので、その中で全く顔も知らなかった3人が集まって「一緒に何かしましょう」とプロジェクトをスタートさせました。4月に被災して、立ち上げたのが7月です。

しかし、当時はモノをつくって売ろうというぐらいの安易な発想。「今、応援で買ってくれる人たちもいるので、共同で商品をつくって販売しませんか」と、地元の知り合いや企業に声をかけ、商品開発を始めました。初めに石鹸やインテリアグッズを手掛けてみたのですが、全然うまくいかず、逆に借金を背負うような状況に。同情から買ってくださった期間が、思ったより短かったですね。商品のプロモーションのために、東京のイベントに参加したこともあります。その際に利用したタクシーの運転手さんに、熊本の地震を知らない方がいたのはショックでした。熊本と東京との温度差を感じましたね。

— そのようなマイナスの状況を、どう脱したのでしょうか。

宮田 プロジェクトを立ち上げた頃、熊本に来てくださった女性支援NGO「ガールパワー」の関係者の方から「みんなの夢AWARD」というビジネスコンテストにエントリーしないか、と勧められたのです。締め切りも間近だったのですが、急いで申し込みをしたところ、書類選考とWeb面談を通過して、なんと最終選考まで残ってしまって。約500人のエントリーから残った7人のうちの1人でした。

東京でのプレゼンは、約2,000人の前で発表する大規模なもので、事前にトレーニングのための合宿もありました。発声練習から、バックに流れる映像に合わせてしゃべるなど、指導は厳しかったですね。それまで私は人前で話すことが苦手でしたが、合宿のおかげで今はだいぶ慣れてきました。

とはいえ、臨んだプレゼン本番ではかなり緊張し、また前の方のプレゼンに感動して泣いてしまったりで、実は何をしゃべったのか覚えていません(笑)。「熊本にいながらでも、さまざまなお仕事を引き受けさせていただきます」と、話したように思いますが、その裏では、「商品が売れなくなったらどうしよう」という不安を抱えていましたね。

コンテストは、ファイナリストのプレゼンに対して、企業の審査員の方々が「応援したい」と思ったら、プレートを掲げる仕組みです。私のプレゼンにも、複数の企業が手を挙げてくださいました。物資や講演依頼などの応援も頂きましたが、何より、レイメイ藤井さんからのWebサイト構築の仕事がとてもありがたかった。1回限りではない、継続した支援に救われました。

— 少しずつ仕事の依頼が増えていったのは、そのコンテストがきっかけですか。

宮田 コンテストに出たら、何か与えてもらえる、と思っていましたが、全く違いましたね。本当に自分たちで食らいついていかないと、チャンスはなかったのです。まだまだ仕事は大変な状況でしたが、立ち上げて半年も過ぎる頃には、私たちも含め、周りの経済が少しずつ回り始めていました。

でも、そこで新たな問題が発生したのです。自分のビジネスが復活したら、「もう関係ない。自分の仕事に戻ります」といった感じで、プロジェクトから去っていく人が出てきてしまって。営業してやっと頂けた案件もあったので、急にやめられると、こちらの信用にも関わりますよね。

 
 
 
 

志を同じく、事業を継続させる難しさ

— 仕事の依頼が来たのに、離れていったのですか。

宮田 あくまで個人的な経験からの感想ですが、女性は概して1つの仕事を継続させるのが苦手なのかもしれません。一家の大黒柱でないことが多い分、切羽詰まっていないのでしょうか。これまでお会いした女性で、固い意志を持って仕事を続けられた人は、3割ぐらいの印象です。

一方で、責任感があっても燃え尽きてしまい、体調を崩される方もいらっしゃいます。「女性を元気にしたくてこのプロジェクトを始めたのに、違う方向に行ってしまっている」。そういったジレンマを感じていました。志を同じくして事業を続ける難しさが身に沁みました。

— そのような時に、コミュニケーションで工夫されたことはありますか。

宮田 スーパーウーマンプロジェクトの共同代表の1人がキャリアカウンセラーということもあり、スタッフのメンタルが不調にならないように心がけ、セミナーも積極的に開催しました。それでも女性が集まると、つい感情的になって揉めることも多くて(笑)。一番困ったのが、組織として請け負った仕事なのに、個人で相手の企業と直接やり取りしようとされるケースです。ビジネスの基本ルールに反するので、それ以降は規約をつくるなど、ルール決めにも注力しました。

— 何が心の支えになっていたのでしょうか。

宮田 応援してくれる方や、一緒にいる仲間です。また、「この活動はすごく意味があることで、絶対に需要がある」という信念だけは揺らぎませんでした。才能があるのに、仕事に恵まれない女性を沢山見てきたので、彼女たちが仕事をしてもっとうまく回るためのきっかけをつくりたかったのです。

私は震災前から個人事業主として子ども2人を養えるくらいの収入を得ており、周りの女性たちからは、「特技を活かして自由に働けていいよね」と言われていました。でも、元々特技であったわけでもなく、Web関連のキャリアもなく、Webデザインは独学でした。

   

 
 
 
 

独学からのキャリア形成

— ずっと独学で仕事につなげてきたのですか。

宮田 はい、最初からWebデザイナーを目指したわけではありません。昔、子どもが成長して着られなくなった服をヤフオク(Yahoo!オークション)で売り始めたのがきっかけです。自分で撮った写真をアップする際、コーディネートやタイトル次第で、売れ方が違うことに気づいてしまって。そこから、ページを工夫することに目覚めました。

でも、当時はWebサイトづくりを教えてくれる場所も、習いに行くお金もなかったので、ネットで情報を収集しまくりました。自分で趣味のサイトを制作して幾つか制作会社にアプローチしましたが、専門の学校を卒業していないと、全然相手にしてもらえませんでした。

そんな中、1社だけ「予算がない農家さんのホームページですが、やってみますか」と言ってくださるところがあって。報酬はお米1俵でした。でも、初めてなので、すごく嬉しくて「やります!」と。結果、農家の方にも大変喜んでいただきました。それを機に、その制作会社でコーディングを教えてもらえることになり、また別の制作会社にアルバイトで入って、次の会社では有期雇用として働いてなど、どんどんつながっていきました。でも、最後に所属していた小さな制作会社が急に倒産してしまい、結局、起業することに。その会社では営業から制作、納品まで全部自分でやっていましたので、一とおりのことはできるまでになっていたのです。

— どうしてそこまで続けられたのでしょうか。

宮田 すごく苦労しましたけど、ただやりたかったから、楽しくやっていました。震災前から、結婚している女性から「本当は離婚したいけど、自分には手に職もなく子どももいるので、我慢しなくてはいけない」という相談を多く受けていました。仕事をすれば需要がありそうなのに、なかなか行動に踏み出せない方が多かったのです。その頃からスーパーウーマンプロジェクトのようなことを、いつかやりたいと思っていたのですが、自分の仕事に追われ、日々精一杯で動けませんでした。そこに震災が起き、仕事が全部なくなり、窮地に立たされてしまって、「ようやく実行に移せるかも」と思ったのも事実です。

これまで経験してきたいろいろなピースが、1つにはまった感覚でしたね。私は元来、計画性がないタイプで、ムダなことを沢山やってきました。ただ、その分だけ「ああ、あの時経験したことが、ここで役に立つのか」と気づくことが、結構ありました。

— 震災前からの蓄積があったからこそ、震災時に行動に移せた、と。

宮田 すがるものが何もなかったから、というのも大きな理由です。それでも、仲間がいたので心強かったですが、中には離れる方もいらっしゃって、自分たちが進む方向性を見つけるのに苦労しました。ピーク時には、10人ほどがメインに動いていましたが、現在は、私ともう1人の2人が中心となり、仕事内容に応じて、それぞれの方にオファーする形にしています。皆さん個人事業主です。

 
 
 
 

スーパーフラワーの誕生

— 復興ビジネスから抜け、飛躍した転機はいつ頃でしたか。

宮田 やはり2017年にレイメイ藤井さんとスーパーフラワーを開発した頃だと思います。元々は紙を売るためのECサイトの制作依頼からでした。でも、「紙で差別化を図るだけでなく、オリジナルな商品をつくりませんか」という提案をして、そこから、当時のメンバーたちで、ペーパーフラワーを研究しました。ただ、お花の先生がいなかった(笑)。かろうじて、シュガークラフトの先生がいただけです。

既存のペーパーフラワーのマネではいけないと思っていたので、シュガークラフト的な発想をあえて取り入れ、この花びらはこんな感じかな、と試行錯誤を重ねました。実は、スーパーフラワーの真ん中に発泡スチロールを入れて立体的にする仕組みは、そこからの発想なのです。

— どのような工夫、そして反響がありましたか。

宮田 材料の紙の需要を増やすためにも、製作法を簡単に、花のサイズを大きくしました。半年くらいで実現にこぎつけ、レイメイ藤井さんが、製造方法の特許を取ってくださいました。花の製作キットは、それほどは売れなかったのですが、展示会でお花のフォトブースを設置したら、長蛇の列ができるほどの人気ぶりでした。それが評判を呼び、いろいろな方からお仕事を頂けるようになったのです。

また、それまでお花をつくる際、とてもきれいな洋紙を使っていたので、切れ端をずっと溜めており、それを使って小さい花をつくってみました。それが現在の私たちの社名にもなった「神子花(みこはな)」の始まりです。

ある時、熊本県庁の方の紹介で、「フラワーズ」というイベントに出ることになり、その神子花におみくじを付けて販売を試みました。初めは1カ月間のイベントに500本を納品する予定が、前夜祭で売り切れてしまって。それからは毎日300本ほどの追加注文を受け、結局トータルで7,000本くらいを納品しました。私は特に手芸が得意でもなく、皆もフラワークラフトの経験はなかったのですが、「やるしかない」と気合で乗り切りました。とはいえ、急に製作人員を増やしたのでクオリティコントロールが課題となってしまい、「これはきちんと教えられる方を育成しなくては」と思っていました。

   
スーパーフラワーのインストラクター養成講座の様子(2023年大阪)
   
スーパーフラワーの花びらピアスとイヤリング。さまざまな色とデザインから選べる
 
 
 
 

個人のスキルを仕事につなげる

— 人手が増えたことで、新たな課題が発生したのですね。

宮田 その頃には、さまざまな施設でお花の装飾も担当しており、おかげで全体的なクオリティは上がっていましたが、お金を払ってお手伝いいただいたのに、検品ではじかれるようなクオリティしか出せない方もいました。その一方で、自らお金を払ってワークショップに参加し、すごくきれいにつくって帰られる方がいる。本当に、買い取りたいほど素晴らしい出来栄えでした。そのギャップに気づき、「花が大好きで、きれいなものしかつくりたくない」という、この方たちを指導者にすればもっとクオリティが上がるはず、と考えたのです。

そこから資格制度を設ける話も含めて、レイメイ藤井さんに「一緒に協会を立ち上げませんか」と直談判に行き、スーパーフラワーのインストラクター講座が始まったというわけです。

— 当初は生徒さんだった方々にお声がけしたのですね。

宮田 得意な方に仕事としてお任せしたほうが、士気も上がり、仕事にも結び付きます。お花の大量注文が入ったときに、教室をやっていなかったら、モチベーションによるアウトプットの違いに気づかなかったでしょうし、資格認定の仕組みをつくって協会を立ち上げ、本気で人材を育成しよう、という考えにも至らなかったと思います。

最初の熊本教室では「ゼロから一緒につくり上げましょう」という思いで、取り組みました。皆さんさまざまな資格を持った有能な方が多かったのですが、それを仕事として活用している方は少なかった。沢山のお金と時間をかけて資格を取得したのに、「仕事に活かすことはできない」と、どこかで割り切っていたのかもしれません。

資格と仕事を結び付ける上で大切なのが、その人の性格や嗜好になるべくマッチさせることです。スーパーフラワー協会では、人とのコミュニケーションが好きな方はインストラクターコース、モノづくりに徹したい方は職人コースと選べるようになっています。その中で等級制度を設けたところ、講師の方々が熱心に取り組み、どんどんレベルが上がっていきました。現在、総受講者数は200人、認定講師は20人を超えたところです。

— コースが選べて認定制度があるのは画期的です。

宮田 でも、立ち上げ時は大変でしたよ。認定講師になっていただき、「今から活躍してもらうぞ」という時期にコロナ禍になってしまって。講座やイベントも中止になったので、ギフトフラワー事業に舵を切りました。

当時、中にはあまりよく知らない方から、「モノをつくって売るのはすごく大変だから、絶対にうまくいかないよ。製作や教室だけにしておいたほうがいい」と忠告を受けたこともありました。ただ、熊本地震が起こった際、自分にできることはホームページのデザインだけだったので、ほかにも選択肢を用意しておくことの必要性を実感していました。だから新しいフラワーギフトに力を入れようと決めたのです。

そしてその主力商品を考えるにあたっては、リサーチをして、年間の売上額が大きく、ギフトの需要も見込める胡蝶蘭をセレクトし、開発に取り掛かりました。おかげさまで大変好評で、現在では毎日出荷がある人気アイテム。感動したお客様がわざわざ電話をくださることもあり、リピーターも多いです。また松屋銀座さんでは、昨年売り場の装飾をさせていただき、今年からギフトフラワーの外商取り扱いが始まりました。

   
インストラクター養成講座を受講し、認定試験に合格後、スーパーフラワー認定講師の資格を取得できる。写真は大阪校でのディプロマ授与の様子

— ビジネスでの判断もスキルアップされていますね。

宮田 「皆さんに感動していただけるものを提供すれば、必ずうまくいく」という確信を持って、続けています。

スーパーフラワー協会のモットーは「自画自賛」です。自分でつくった花をインスタに上げ、自慢して広めてもらうことで自己肯定感を高めていただいています。これまで点と点でやってきたものが、ようやくつながり始めました。

例えば、スーパーフラワー協会の講師で、ほかに英会話やアロマなどの特技を持っている方も多いので、今後、それらを講師向けの講座として取り入れることも考えています。持っていたスキルをプラスアルファとして、ぜひ活かしていただきたいと思います。

   
松屋銀座の催事6.19THANKS Father’s Day」で設けられた、ひまわりのスーパーフラワーのフォトブー
ス(2022年)
   
スーパーフラワーの胡蝶蘭。縁起の良いギフトフラワーとして人気を得ている
 
 
 
 

熊本から世界を目指す

— ビジネスが着実に広がっていますが、極めつきはミラノとパリでのコレクション参加です。どこからその話が来たのでしょうか。

宮田 皆さんから「どういうこと?」とすごく聞かれます(笑)。
きっかけは、以前、熊本の水前寺公園の参道に構えていたスーパーフラワーの工房に、観光客としてモデルの方が立ち寄ってくださったことです。2年ほど前のことでした。

彼女はモデルの大きな世界大会で受賞経験があったものの、スランプに陥って、悩んでいる時期でした。いろいろな話をしたところ、なぜかとても気に入ってくださって、翌日に帰る予定だったのが、それから1週間、毎日来てくれたのです。

当時、「海外にチャレンジしたい」と言っていたので、背中を押して、「向こうに行ったら、ぜひ招待してね」と約束しました。そうしたら、本当に1年後、海外デビューを果たし、約束どおり、誘ってくれたのです。

— ドラマのような展開ですね。最初はミラノコレクションでしたか。

宮田 後で知ると、私と出会った頃、彼女はどん底の時期だったそうです。でも海外で活躍するようになって、スーパーフラワーのイヤリングを「ミラノコレクションで使いたい」と言ってくれました。そして、彼女が立ち上げたブランドで、アクセサリーを担当させてもらったのです。ミラノには、スーパーフラワー協会の講師3人が、自腹で行ってくれました。実は私も行く予定でしたが、パスポートの期限が3カ月を切っていたのに気づかず、「それでは渡航できません」と、空港でストップがかかりました。

泣く泣く彼女に今回は行けないことを伝えたら、「来年はパリコレに一緒に出ようね」と言ってくれて。そしてその3カ月後には、本当に「パリコレにブランドとして出ませんか」という話を頂いたのです。

— あまりに話がトントン拍子で、驚きます。

宮田 早速、「パリコレの主催者とチャットグループをつくるから、そこでやり取りしてね」と言われ、全然英語ができない私は、翻訳機能を使いながら、何とかやり取りを始めました。でも、行くといったものの、ウチは花しかつくっていないので、服をどうしようか、と。開催まで2カ月しかなかった頃です。

ちょうど、大阪でのスーパーフラワーの講座のために、結婚式場の親族控室を提供してくださっていた会社にドレス事業部があることを見つけて、「パリコレに出ませんか」とお誘いしてみました。

先方はびっくりされましたが、すぐに良いお返事を頂けました。資金も乏しかったので、協賛のお願いもしたところ、その会社を通じて、ドレスブランドの会社3社が協力してくださいました。おかげで、パリコレに必要な12着のドレスが揃い、そこに付ける花を1カ月でバタバタとつくり上げました。

当初、紙でドレスをつくろうかとも思ったのですが、1回で終わらず、次につながる方法を見つけたかった。そこで、ブライダルの会社にパリコレにお誘いした際、「お花の付いたドレスのブランドを一緒につくりましょう」という提案もさせていただき、パリコレの後にはブライダル業界でデビューもさせていただきました。ただの紙の花ならブライダルで売れません。でもシンプルなドレスに取り外しができる花を付ければ、式の後に部屋に飾ってもおけます。

— 着実に次のビジネスにつなげていますね。

宮田 これまでは幸運なことに次につなげてこられましたが、きちんとした計画性があったわけではなく、不安もありました。ですので、昨年12月にMICOHANA(神子花)を設立した際には、しっかりと事業計画書を作成しました。

それより前、2020年には九州経済産業局主催の「九州デザイン経営ゼミ」に半年間通っていたのですが、そこで、ある講師の方から「震災時の復興ビジネスから、外部に頼らず、自分たちだけでやってきたのは素晴らしい」とほめていただき、同時に販路開拓のアドバイスを頂きました。 地方創生にも取り組まれている方でしたので、現在、当社の役員に入っていただいています。その方からスーパーフラワーについても「これは絶対に海外展開すべき」と勧められ、実は大阪・関西万博のオーナメントとしてもエントリーしました。するとWeb面談で日本国際博覧会協会の方が「日本の新しい技術として海外にアピールしたほうがいい」と大変共感してくださって、外国の要人を招く迎賓館に飾ることが決定したのです。 

   
スーパーフラワーを付けたドレスの新ブランド「MICOHANA-神子花-」を立ち上げ、2024年3月、パリコレクションにデビュー
   
2023年9月に開催されたミラノコレクションでは、スーパーフラワーの花びらイヤリングを携え、「結」プロジェクトの一員として参加
   

 
 
 
 

お花の講師を憧れの職業に

— それはすごいですね。今後はどのようなビジョンを描いていますか。

宮田 お花をつくる職人の方たちが、それだけで食べていけるようにしたいです。今までの内職のイメージは、暗くてあまり儲からないといったものですが、それを外での仕事と変わらないくらいの収入を得られるように引き上げていきたい。

同時に、認定講師を憧れの職業にまでもって行ければと考えています。花職人やお花の講師を、チャレンジする存在にまで高めていきたいですね。

— 内職のイメージも変わりますね。現在、日本中のどこで災害が起きてもおかしくない状況ですが、皆さんに伝えたいことはありますか。

宮田 被災したらどう動くのか、と事前に想像力を高めておくことが大切かもしれません。東日本大震災の際には、まさかその後、自分が被災するとは思っていませんでした。当時、熊本でイベントが全部キャンセルになって、あるイベント会社が倒産した話を耳にしました。2011年3月12日に予定されていた「くまモン誕生祭」も中止になったのですよ。

私も何かしなければ、と思っていましたが、日々の仕事に追われて、行動に移せませんでした。もし、その時から準備をしていたら、現在は、違う姿だったかもしれません。

日頃からアンテナを張っておくことも重要です。震災時に立ち上がった事業は多かったものの、継続できたのはほんのわずかです。でも私たちの歩みをもっと多くの方に知っていただき、「あぁ、震災からここまで来られるんだ」という希望の光に感じていただければと思っています。

地方からビジネス展開を目指すにあたり、私は、お会いした方々から社交辞令でも「いいですね」と言ってもらえたら、その言葉を受け止めて「次はいつお会いできますか?」と自分から積極的に縁をつなぐようにしていました。八方ふさがりのときでも、どこかで道が開けると信じてやってきました。

— 相手に本気度を示す、ということでしょうか。

宮田 同時に、相手にとってのメリットも考えます。一緒にやってくれる人や応援してくださる方に何かプラスになると、私もすごく嬉しいですし。「ここに関わってよかった」と思ってもらえるよう、期待以上のものを返したいと努めています。

私はビジネスを一緒に始める方には、お花をつくってもらいます。大人が久しぶりに工作に没頭できるのが心地よいのか、皆さんに満足感と達成感を得ていただいています。

そういったスーパーフラワーをつくる楽しさを、もっともっと多くの方の収入につなげていきたいのです。私も親の介護で追い詰められた経験があるのでわかるのですが、介護や家の都合で仕事をやめざるを得ない方や、シングルマザーで収入が必要な方々の気持ちに、少しでも応えていきたい。

なので、このお花を広く知ってもらえるように、これからも積極的に動かないと、ですね。

   

一般社団法人スーパーウーマンプロジェクト

スーパーフラワー協会