インスタントハウスで届ける「希望」

2024年9月26日 11:00 Vol.89
   
北川 啓介
名古屋工業大学大学院工学研究科社会工学類 高度防災工学研究センター教授
Keisuke Kitagawa
1974年愛知県名古屋市の和菓子屋に生まれる。1999年ニューヨークの建築設計事務所にて建築設計に従事。2001年名古屋工業大学大学院工学研究科社会開発工学専攻博士後期課程修了、博士(工学)。同大学助手、講師、准教授を経て、2018年から現職。2017年米国プリンストン大学客員研究員。建築構造物領域のプロフェッショナルであり、インスタントハウス技術の考案者。受賞歴に、科学技術分野の文部科学大臣表彰など。

被災地の避難所では、生活条件を整えることが大きな課題だ。プライバシーが保たれ、安心して過ごすためには、どうすればいいのか。東日本大震災の教訓から開発されたインスタントハウスは、能登半島沖地震の際、多くの被災地に届けられた。被災者自らが建てる利便性も、注目を集めている。今回、名古屋工業大学のキャンパス内に建つ屋外用のインスタントハウスの中で、開発者に話をうかがった。
text: AD STUDIES photograph: Masahiro Heguri

和菓子職人の夢から、建築の世界へ

— インスタントハウスの中に初めて入って、驚きました。レジャーホテルのような美しさと快適さですね。

北川 学生の時から教員に着任して10年ほどは、空間が生み出す美しさ、快適さや恰好良さにずっと憧れていました。それを建築で実現しようと、さまざまな取り組みをしてきました。安藤忠雄さんや黒川紀章さんの講演会に参加したり、国内外の建築家展に出展したり、大学院の博士後期課程の頃からは、海外の建築事務所で研修を受けたこともあります。

もちろん建築を追求するためなのですが、それ以上に、和菓子職人になるために、洋菓子の製造技術もきちんと知っておきたいという強い気持ちがあったのです。

— それほど和菓子への想いが強かったのですね。ご実家は和菓子屋さんとうかがっています。

北川 実は、最初から建築の道を目指していたのではなく、和菓子職人として実家の後を継ぐつもりでした。ですが高校3年のとき、父から、「まだ早い」と言われてしまったのです。その頃、周りの友達がみな、名古屋工業大学を受験するということだったのが、私もこの大学を選んだきっかけです。建築学科を選んだ理由は、和菓子職人の皆さんが、古いものや新しいものを含め、さまざまな素材を用いて土地の文化や伝統を守っていることに、建築との共通点を感じたから。和菓子づくりの参考にもなって、逆に、和菓子づくりを通して学んだ、モノづくりのメカニズムや知識も、もしかしたら活かせるのではないかと思いました。

大学院生の頃は、ニューヨークをしばしば訪れました。多国籍な文化があり、実験的な試みを行っているところがいいな、と思ったからです。ニューヨークでは、伝統へのアンチテーゼを訴えながらも、少し既視感を残すことによって、くすっと笑えるアートを実現させるなど、新しいものに接することができました。

建築も和菓子も、アートの要素を多分に含んだモノづくりです。大きさは異なりますが、それらを通して、その土地の文化や、人々のアーティスティックな試みに直に触れることができます。

実はこの、屋外用インスタントハウスも、鹿児島の和菓子「軽かる羹かん」をイメージしているのです。私は今からでも和菓子職人になりたいので、つい、「建築を大きい和菓子に近づけたい」という夢に寄ってしまうのかもしれません(笑)。

 
 
 
 

東日本大震災での挫折から、インスタントハウス開発へ

— インスタントハウスの設計は、東日本大震災の被災地訪問がきっかけと伺いました。

北川 避難所で出会った小学生の一言がきっかけです。「どうして仮設住宅が建つのに数カ月もかかるの? 大学の先生なら、来週建ててよ!」というものでした。それに対して、何もできずに悔しくて、悲しくて、仕方ありませんでした。

宿に戻って、一人で「来週建てる建築」について考えを巡らせましたが、答えが出ません。子どもたちの要望に応えられないのなら、もう教員をやめようと、思い詰めていました。

でも、せめて「3カ月から6カ月位かかってしまうのはなぜか」、という問いには答えたかった。そこで、既存の建築物を建てるのに時間がかかる要素をひとつずつ洗い出して書き出してみた結果、40項目ありました。例えば、重い、大きい、高価など。建築物ができるまでに時間も手間も人数もたくさん必要となる要因の数々です。

次に、それらの要因の右側に、それぞれの対義語として、軽い、小さい、安い、などの要素を記していきました。その上で、それら40の対義語に通底するものは何か、を模索しはじめました。40のうち、ひとつでも欠けていたら、来週建てることは叶わないからです。

そんなことを考えながら名古屋に帰ったときのことです。リュックに入れておいたダウンジャケットを羽織った時に「あぁ、空気だ!」とひらめきました。

それは軽く、小さくして現地に運び、そこで膨らませることができる。空気なので、原材料費は無料、断熱性·遮音性も高い、といいこと尽くしです。

その翌日には、100円ショップで風船を買っていました。「身近にあるものでつくる」、も重要な項目の一つでしたので。その後は、ひたすら実験を繰り返す日々です。絶対、失敗するとわかっていてもいろいろ試しましたよ。

— 失敗するとわかっていても、ですか。

北川 そうです。爆竹や、コーラメントス、布団、スポンジ、耳栓も試しました。避難所の小学生から私への宿題に応えるのに必死で、その後、5年半、実験を重ねていきました。

最終的な構造を思いついたのは、パン屋さんでフランスパンを見たときでした。ふと、「この中に住んだら、どれほど気持ちいいのだろう」と感じたのです。ふわっとして、湿度も保たれている。外側はパリッとしているから、構造的にも強い。この構造でやっていこう、と。それが2016年のことでした。その数カ月後には、実験第一号を完成させたのです。

建築には、安全性などクリアしなければいけない基準がたくさんあります。それらへの対策を考えながら、すぐに届けられるように、シンプルなものを目指しました。

— インスタントハウスには屋外用と屋内用の2種類ありますね。能登半島地震の際にはいくつ位の数を届けられたのですか。

北川 能登半島全域で、これまで屋内用を約1000棟、屋外用を約175棟、途切れることなくお届けしました。トラックで大量の資材が現地に届くと、私が車を運転して個別配送し、インスタントハウスを建てていくのです。断熱材の吹き付けの職人さん達に作り方を次々と伝授する日々でした。国内外からのご寄付と経費のバランスがとれ始めるようになった3月までは、ほぼ能登半島地震の被災地にいました。

拠点にしていた輪島中学校を朝の6時には出発して、インスタントハウスを建てて、また戻るのが0時過ぎ、という毎日でした。その途中、オンラインで大学の授業や論文指導なども行いました。被災地では、「一人13役をやっているね」と言われたくらいです。

— 一人だったとは、とても驚きました。なぜそこまでできるのでしょうか。

北川 現在も過酷な状況は続いていますが、被災地の皆さんは、家や家族をなくされ、本当に辛い思いをされているのです。「何とかしたい」の一言に尽きます。

地震発生の際には、名古屋でも大きな揺れがありました。テレビをつけたら、能登だとわかり、まだ揺れが収まらないうちから、すぐ現地に駆け付けようと思いました。

屋内用インスタントハウスのストックが大学に十数棟分あったので、それを運ぶため、すぐにレンタカー店に電話をしました。また、その時点でグランピング用として既に利用されていた屋外用ハウスの迅速なお届けも、念頭にありました。

   
能登町に設置された、屋外用インスタントハウス。シンプルながら、ぬくもりや心地よさを感じさせる外観だ
   
中に入ると、断熱性や遮音性が高く、快適に過ごすことができる。1~2時間程度で設置可能
   
避難所に設置された、屋内用インスタントハウス。 小学生2人でも設置でき、設置にかかる時間はおよそ15分。段ボール製のため、自由に絵を描いて楽しむ子どもたちの姿もあったという
   

 
 
 
 

能登半島の被災地での支援活動

北川 1月2日の夜、被害が深刻だと報道されていた輪島を目指しましたが、道がふさがっていたので、手前の穴水町のふれあいセンターに参りました。凍るように冷たい床の上に、ご高齢の方々が毛布一枚を敷いて寝ている状況でした。持参してきた屋内用のインスタントハウスやダウンジャケットをお渡しできる数は限られていましたので、その分、被災者の皆さんのお手伝いを進めました。

1月3日の早朝、輪島に行く道が再開し、すぐに現地へ向かいました。避難所である輪島中学校の体育館では、皆さんが灯油ストーブで暖をとっていらっしゃいましたが、北側と南側のガラスのほとんどが割れ、窓から冷たい風が入り、吹き曝しの状態で気温は3℃でした。備蓄品·携帯品も殆どなく、体育館の床で寝るしかなかったのです。倒壊の危険のある家から持ってきた毛布やダウンジャケットは、あの寒さの中ではほとんど役に立っていませんでした。

体育館の中で屋内用のインスタントハウスの壁を立て、屋根のパーツを載せた瞬間、それまで重たい空気に包まれていた避難所に、「ワーッ」と声が上がり、少し拍手が起きました。

その場の雰囲気が一瞬で、明るくなったことを覚えています。

子ども達も寄ってきてくれて、みんな一緒になって続きを作ったところ、あっという間に完成しました。その時、3歳の女の子が、すごく大きな声で「おうちができた!」と言ってくれたのです。その子の家は崩壊し、家族で身を寄せていたということでした。

「すぐに駆けつけて本当に良かった。東日本大震災の時に何もできなかったけど、今、ここで少しでも役に立てた」、と、思わず体育館の外に出て20分ほど号泣していました。

— インスタントハウスが、被災者の方々に喜んでいただけたのですね。

北川 その後、同じ中学校の別の校舎にも屋内用のインスタントハウスを建てたところ、着替えや授乳室などの避難所内のバッファーゾーンとして活用していただき、まるでまちのようになってきました。当初に車に載せてきたものを全部使っても、まだまだニーズがたくさんあったので、一度、名古屋に戻り、大急ぎで段ボールを扱う多くの会社に電話で相談して、頭を下げてまわって、2日で、段ボールの大量生産の仕組みをつくり上げました。

実は、屋内用のインスタントハウスは、段ボールの型をつくるためのまとまった初期投資が必要でしたが、自分の貯金を使う覚悟で、迷わず発注しました。同時に、屋外用のインスタントハウスのお届けに向けて、テントシートと断熱材の会社とも折衝を進めました。

同時に、輪島中学校でのエピソードについて、中日新聞から電話取材を受け、それを記事として1月6日の夕刊とインターネットに大きく掲載いただき、一気に注目を集めました。

すると、大学近くのコンビニや街中で私を呼び止めて、応援のための寄付を現金として差し出してくださる方や、大学の研究室に寄付したいという方がたくさんいらっしゃいました。大学としてそのようなお金を受け取る制度がなかったところ、3日後には大学本部が急いで基金を設立し、1週間後にはそのためのウエブサイトを立ち上げてくださいました。

奨学寄附金は、学外の方へ物をお届けできませんが、基金はそこまで使途が限定されません。国内外からいただいた基金をもとに、インスタントハウスを大量生産し、被災地に届け、次々と建てていきました。現地にハウスを届けるたびに報道いただき、その都度寄付金が集まり、またそのお金で現地に届ける、というサイクルを繰り返すうちに、基金は半年で6100万円を超えました。

配送のためのトラックを調達するために、運送会社の皆さんも、快く協力してくださいました。これだけスピーディーに動けたのは、大学や運送会社の方々との望ましいチームビルディングが築けたことが大きいです。「何とかしたい」、という気持ちを優先してともに動いてくださいました。

—「人を助けたい」、という想いでつながっていたのですね。

北川 ただ、時間の経過とともに、変化も起こります。

被災直後は、家もインフラも失い、社会がなくなってしまった中で、皆さんが自然に助け合っていました。お互い顔見知りの小さなコミュニティなので、皆さん、助け合う気持ちが極めて強いのです。また、私のような域外の者でも、この半年間、これまで嫌な思いをすることは一度もありませんでした。皆が「自分」を忘れ、ただ、他者のためにできることを実行されていました。

— 社会の仕組みがなくなった中で、人々が誠意でつながっていたのですね。

北川 そうですね。しかし、社会という仕組みが復活し始めると、酷な状況も生まれます。例えば、役所の方が来て、建物の全壊·半壊を判断し、色別の札を貼っていき、それに沿って、復興が進められていくのですが、そこには、個人の家への想いや経済状況は考慮されません。

「感謝の心で信頼し合う」という能登の方々の本質は変わらないのに、外のシステムを受け入れざるを得なくなると、優先順位が変わり、人々の間で温度差が生じます。

「避難所ガチャ」という言葉がありますが、それは管理担当者の判断によって、避難所の環境が大きく左右されるという意味です。以前、近くの避難所の女子高校生2人からのリクエストに応じて、屋内用のインスタントハウスを届けようとしたことがあるのですが、そこの管理人の方から設置が許可されませんでした。その方は、避難所からの移行をスムーズにし、閉鎖の際の廃棄物を最小限にしたい、など、今後のことを思っての判断だったのかもしれません。

— インスタントハウスは、避難所のさまざまな問題に役立っていると思いますが。

北川 プライバシーの確保に加えて、インスタントハウスは、遮断された空間をつくるので、気温の低い避難所で、少しでもハウスの室内温度を上げ、また感染症の発生率を下げることにも有効でした。

感染症が発生すると、避難所で隔離室をつくらなくてはならないのですが、患者数が増大すると、数が追いつきません。ある避難所では、93%の方が感染症にかかる事態が発生し、隔離室が不足している状況でした。医療チームからの要請で、その避難所へ数多くの屋内用のインスタントハウスをお届けしたところ、数日で感染率が下がり、低体温症の発生率も各段に下がりました。

— まさに人々の命を救っていますね。

北川 あるとき、被災された女性の方が、「北川先生は、モノを届けるだけでなく、希望も与えてくれる、とみんなで話しているんですよ」と言ってくださったことがあります。

私たちがインスタントハウスを設計する際に心がけているのが、設計する私達が50%をつくり、使う側がもう50%の使い方を能動的に決められるようにしよう、ということです。設計図に落とし込むという建築の基準を踏まえながら、使う側が愛着をもって使いこなせる要素をあえて残しています。

能登のインスタントハウスにも、子どもや漆塗職人の皆さんが自由に絵を描いたり、照明の位置を変えたり棚をつくったり、それぞれ工夫されています。私も相談を受けてアドバイスしているのですが、最後に、「もう皆さん、建築家ですね!」とお伝えすると、表情が、ぱーっと明るくなるのです。「自分たちの空間としての家をもう一度もてた!つくれた!」と思ってくださる様子に、私もまた涙が溢れてきます。

どうしても、日本の避難所は、「今」を考えることで精いっぱいになってしまうので、楽しみや喜びも感じていただけるおうちをお届けしたいのです。

 
 
 
 

海外と日本の避難所の違い

— 海外の避難所とは異なるのでしょうか。

北川 日本の避難所は、「最低限の公平性をもって、基本的な生活を設える」という方針で設計されています。

ところが、災害からの復旧先進国といわれるイタリアは、日常よりも、もっと喜びや楽しみを高めたレベルで設計されています。例えば「被災後3日以内に温かい料理とおいしいワインを提供できるように、避難所にシェフとソムリエが行く」、と具体的に明示されています。

トルコの被災地には、3日以内に大道芸人が来ていました。避難所に関する国際的な基準「スフィア スタンダード」(Sphere Standards)は、それまでもっていたものを失い、悲しい目にあわれた人々に、少しでも豊かな気持ちになっていただくことが目的です。被災者の心の痛みを軽減し、未来の希望を見つめてもらいたい。今日のことは、誰かがやりますから、という理念です。ですので、QOLを上げるために、温かい料理とおいしいワインが自然と出てくるのです。

— それは知りませんでした。防災大国といわれている日本は、まだまだです。

北川 トルコに行った際、日本での「災害関連死」についてトルコの政治家とお話ししたのですが、「何を言っているのですか」と驚かれてしまい、こちらが驚いた程です。「災害関連死」をWikipediaで検索すると、日本語での多くの情報以外に、韓国語の情報が少し載っているくらいで、その他の言語では記載がありません。被災して、手当が行き届かなかったために亡くなるという概念は日本国外にはほとんどないのです。

台湾で地震があった際も、発災の翌日には避難所でテントが並んでいる様子がテレビで報道されていました。アロマセラピーやマッサージのコーナーもしっかり設置されて、日本では100日かかっても達成できなかったことが、台湾では1日で達成され、先を越されてしまったのです。

— 日本ではこれだけ災害が身近な国なのに、その違いはどこにあるのでしょうか。

北川 日本で公に避難訓練が行われたのが、1960年9月1日です。関東大震災の日に合わせていますね。当時の資料によると、その基本に「公平性」が掲げられています。個々の人や世帯の生活ではなく、「全体として不公平があってはいけない」という理念が優先です。

また、能登半島ではこんなこともありました。避難所で400棟分の屋内用インスタントハウスを建てるための、第一便として100棟分の資材が先に届いたときのことです。避難所の運営会議で、私は、本当に困っている方から先につくり始めることを提案しましたが、「不公平があってはいけない」ということを理由に、実現せず、数日間、悲しい思いでした。

それは日本人特有の「我慢強く、優しい」という、ある意味日本が誇ることのできるメンタリティが前提になっています。外国では、皆さん我慢しません(笑)。日本でも、臨機応変な対応が望まれています。

   
2023年2月に発生した、トルコ・シリア国境付近での巨大地震。北川教授グループは被災地を訪れ、現地の方と協力しながらインスタントハウスを建てた
 
 
 
 

未来に向けた教育とインスタントハウス

— これから防災を進める上で改善すべき点がたくさんありますね。先生がお考えになる未来志向の都市や建築は、どのようなものですか。

北川 大学での教育や研究で大切にしているのは、「未来の教科書をつくる」という視点です。学生一人ひとりの卒業研究もそうですが、誰かが既にやっていることをやっても、新規性がないと研究としては認められません。

1、2年生のうちは、教科書で押さえるべき基本的な事柄を修得しつつ、3年生以降の授業では、既成の教科書を疑うくらいの観点で、学生と教員が一緒になって未来志向で論じ合うことが少なくありません。「正解か間違いか」という議論ですと、学生は間違えたくないから発言を控えがちですが、「より良い社会づくりに向けてアイデアを出し合いましょう」という正解を求めない前提ですと、学生が見違えるように積極的かつ能動的に論じ合ってくれます。 

— インスタントハウスの今後については、どうですか。

北川 私は生涯をかけて、世界中の家に困る人々が、快適で丈夫な家をもつことを、当たり前のこととしてどう実現できるのかを、追求し続けたいです。世界を見渡せば、社会格差や戦争を背景に、難民が増え、家
がない人の割合が以前より増えています。誰もが安心して過ごせる家をひとつでも多くつくっていきます。

また、今、屋外用のインスタントハウスの断熱材を、食べられるものでつくる研究開発を進めていまして、実現までもう少しのところです。

2017年から2018年にかけての7カ月間、アメリカのプリンストン大学に籍を移して活動していた際、ニューヨークから比較的近かったこともあり、ニューヨークでインスタントハウスのニーズを調べるため、国連、EU、難民機構など、数多くの国際機関でインタビューを実施しました。

そこでわかったことが、世界中の難民は危険と隣り合わせで避難しているので、平均3カ月以上は定住することがない。

また、家を残して次の避難場所へ移動するので、それまでの家はそのまま廃棄物として残ってしまうため、地球環境に悪影響を及ぼしている、ということです。

その時に、和菓子屋としての発想で、「食べられる原料でつくりたい」というアイデアが湧いてきました。3カ月たってその場を逃げるように離れても、そのまま崩しておけば、地球環境にも悪影響ではない。また、原料に種を混ぜておけば、お花畑になるかもしれない、という想像もしています。

難民キャンプや避難所は、食事が足りないことを避けるため、多めに用意をするので、どうしてもフードロスが出てしまいます。その多くは、お米、ジャガイモ、トウモロコシなどのでんぷん質です。これを解消できれば、SDGsのさまざまな項目をクリアできるだろうと考えました。

食べられる素材を試す実験は、楽しみながら改善と工夫を重ねてきました。和菓子職人の父からアドバイスをもらいつつ、今も一緒に実験をすることもあります(笑)。

— インスタントハウスは、さまざまな課題の解決にもつながるのですね。

北川 家とは、この世に生を受けたからこそ、人生をより良く全うするために、安心して過ごせる場所です。そこには、先祖代々、脈々と受け継がれてきた土地で生きるという恩恵も受けています。

インスタントハウスも、モノとしての「ハウス」という機能に加えて、I‘m home!(ただいま!)、と言えるような、広い意味での「ホーム」という存在になっていきます。

1月上旬に、輪島で、火災で焼失してしまった商店街の地域の方から、屋外用のインスタントハウスを依頼いただいたことがありました。バラバラになってしまった地域の皆さんと顔を合わせられる場がほしいとのことでしたが、ハウスを建てている途中から、その方のSNSの投稿をきっかけに地域の皆さんが続々と集まり始め、「久しぶり!」とまたコミュニティが再開したのです。

ざっくばらんに書き込まれる地元の方々のSNSのコメントによって、つながりが復活し、これまで見えてこなかった新たなつながりの発見もありました。また街中の多くの損壊した建物の解体資格を取るために、避難所で勉強し、取得された方もいたほどです。今回、ご近所さん同士の協働によって、まちのコミュニティは発災前よりももっと強固になっているということも聞きましたし、私も実感しています。

食べられる断熱材も該当しますが、世界中で、その場所によって調達できるものは千差万別です。これからも、あくまで現地で手に入れやすい物で、その地域の方々とアイデアを出し合いながら、ともにより良い住環境をつくっていきます。

ハウスの提供だけではなく、家をつくる職能も伝授したいです。満足した家に住まうことが叶わない難民やホームレスの方々が、自分たちの家を始め、まちの施設などもつくれるようになれば、彼ら彼女らがその収益を得ることができ、本当の意味の自立が実現できます。

私を突き動かすのは、「人のため」という想いに尽きます。被災地の支援の場でも、相手を尊重しながら、一緒に楽しむことを大切にしています。これからも、その信念で、人生をかけて行動して参ります。

   

インスタントハウス|北川啓介研究室

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