「その子」の心がプルっとする学び

2024年12月26日 11:00 Vol.90
   
井本 陽久
いもいも主宰
Haruhisa Imoto
1987年栄光学園中学·高校卒。1991年東京大学工学部卒。翌年栄光学園中学·高校に数学教員として赴任。2016年いもいも教室を主宰。「鍵メソッド」と呼ばれる独自の幾何教授法や、思考力を重視するアクティブラーニング型授業に取り組み、教育関係者や各種メディアより注目が集まる。その活動は、NHK総合『プロフェッショナル仕事の流儀』、おおたとしまさ著『いま、ここで輝く。』(エッセンシャル出版社)をはじめ、多数のメディアで紹介されている。
   
三戸 健也
いもいも講師
Kenya Mito
2001年生まれ。栄光学園中学·高校を卒業後、横浜国立大学教育学部で学ぶ。卒業後、いもいも思考力教室、森の教室の講師となり、現在に至る。「つまらない」と思っていたことが「面白い!」と思える、「受け入れ難い」と思っていた人が「愛おしい!」と思える、そんな瞬間をつくれる授業に可能性を感じ、2019年から授業づくりに熱中。つくった教材は1200個を 超える。いもいものオリジナル教材作成の中心的存在。

世の中の多くの授業では、パターンを把握し、高得点を狙うための解き方を身に付ける。学力評価が主流の中、昨今は自ら考える力を培うための教育の場やカリキュラムが模索されている。そんな中、先生と生徒が「思考のプロセスを共有しあう」という学びを行う場がある。そこで得られる「自分が思わず出て、心がプルっとする」体験とは、どのような学びか。実施する先生方に、お話をおうかがいする。
text: AD STUDIES photograph: Masahiro Heguri

— 昨年小学校で、井本先生の授業を見学しましたが、とてもユニークでした。

井本 一般的な授業では、最初に解き方を説明し、生徒がそれにそって問題を解いていくことが多いですが、私の授業では教えることをしません。でも、授業が進むにつれ、子どもたちがどんどん安心して問題に取り組むようになります。それは、「できるかどうかなんて見ていない」ということをハッキリ伝えるからです。“できること”が求められてしまうと、できていない子は、周りと自分を比べてどんどん不安になり、集中できなくなりますよね。

私はずっと「与えられた勉強は意味がない」という信念を持っています。それは私が身をもって体験したからです。中学1年生のあるとき、ふと思い立って、猛勉強を開始しました。それ以来、食事中以外はずっと勉強、というペースが高校3年生の終わりまで続き、その結果、東京大学に合格しました。

しかし、「自分は勉強ができる」という実感はありませんでした。大好きな教科以外は、好きだからではなく「できるようにする」という意識で勉強したからです。なので、大学に合格した際には、達成感と同時に、大学で自分の価値を上げることへの違和感が沸き起こりました。そして入学後には、ぴたっと勉強をやめ、「求められた勉強」の内容はすぐに忘れてしまったのです。本当は、そこから探求する学びが始まるのに。そのような経験から、「子どもたちには、心から面白いと思える学びをさせたい」という強い思いを抱くようになりました。

— 大学卒業後は教員のキャリアを、中高一貫校の栄光学園でスタートされました。

井本 栄光学園では、中学生の数学を担当しました。幸いその学校では、授業カリキュラムの大枠だけが設定され、あとは各教師に自由に任されていました。1年目から指導も一切なかったです。当初から「本質的な学びとは何か」を意識して、常に生徒と授業のことに集中できたのは、ありがたかったですね。

三戸 僕は井本先生に数学を教わっていました。ですが、数学の勉強というより「いもにい」(井本先生の愛称)という教科を受けていたような感覚です。なぜなら、先生から何かを教わるのではなく、生徒が授業中ずっと考え続けるという、唯一無二の授業だったからです。さまざまな幾何の問題に対して、根拠を使って証明していくのですが、その根拠を「あ」や「い」などの記号が付いた「鍵」と名付け、それを使いながら証明していくのです。例えば「三角形の内角の和は180度である」というのを「あ」の鍵とすると、別の問題をその「あ」を使って証明します。そこで証明された命題は、また新しい名前の根拠の鍵となって使えるようになるのです。このように根拠を鍵にすることで思考が明確になって整理され、幾何の証明問題なのにまるでパズルを解いているような楽しさを味わうことができました。

また井本先生がすごいのは、既存の教材を使わず、生徒の回答から授業をつくることです。良い解法を生徒の名前付きで紹介したり、誤答から新たな教材をつくったりもします。生徒たちの反応を取り入れたまさに「1回限りの、生の授業」でした。

僕はテストで学年最低点を取るほど数学が苦手だったのですが、たまに自分の解法が紹介されたときは、本当にうれしかったですね。

 
 
 
 

その子のありのままが発揮される学びの場

— 既存の教材ではなく、生徒の回答から授業をつくっていくのですね。

井本 授業では、毎回「おみやげ」として、私が作成した問題を生徒に渡していました。提出義務はないのですが、提出された解答をすべてチェックした上で、正答・誤答をもとに次の授業をつくるのです。かなり時間がかかりましたけどね。それで私は自分の解答を一切出さない。だから教えていないんですよ。講義もほぼしていませんでした。

一般的に、教育は学力など大切なものを身に付けさせること、と思われがちですが、私はそうは思いません。むしろ、その子のありのままの力を存分に発揮させてあげることなのです。塞がっているものが取れて、その子らしさが出ると、「これってこういうことなんだ」と自分で意味付けができるようになります。方程式などのパターンを使えるようにすることで身に付くのは、せいぜい活用力くらいで、そこには自分がいない。でも、その身に付けたパターンが通じない状況に置かれると、人はむちゃくちゃ無防備になるんですよ。

私は、東京都の多摩地域にある檜原村で、自然の中で主体的に遊ぶ「森の教室」を開催しています。そこで「たき火をしましょう」と言ったら、みんなマッチや新聞紙を使います。これは“自分”を発揮しているわけではありません。しかし、「マッチや新聞紙が使えません」という状況になったら、みんな試行錯誤して、無防備な状態になります。

そうじゃないと、人は正解を探してしまいます。子どものときから「これが正解だ」と言われ続けているから。それを否定はしませんが、それでは自分がなく、生きている実感が湧きません。なので、私は解き筋もない、わけがわからないものをポン、と置き、その子がウァーとなるときに、何を考えどういうアプローチをしているのかを、しっかり見てあげるのです。「できる、伸びるということは何なのか」を徹底的に突き詰めた結果、そこにたどり着いたのです。

— 知能というより、本来の生きる力が引き出される、ということですか。

井本 よく、「○○力を上げよう」、といわれます。でも、それは人が理解するために細分化したものに過ぎません。例えば創造力を育てよう、とよくいわれますが、それらしいものを人が細かく分析し、「創造力」と名付けただけのように思えます。では、本来の力とは何かといえば、ありのままの自分でいることなのです。そうしたときに、結果的に新しいものがつくれた、ということになるかもしれません。

ですから、新しいものをつくれる人と、つくれない人との違いは、世間が価値を置いている分野で、それができたかどうか、ということです。そこで「つくれない」と見なされた人は、ありのままの自分に対して、周囲が全然そういう感性を持っていない、というだけのことです。だから、「○○力」をアップさせるためにこれをやりましょう、というのは実際にはないものを見つけようとしているだけなのです。

それよりも、子どもにすべてを委ねて本人が素直にやってみた結果、周りの心が動くと、どんどん自分を出すようになるのではないでしょうか。

— 子どもがありのままでいられる場をつくるということですね。

井本 そのような場をつくり、大人が子どもをどう見るかですね。基本的に学びは試行錯誤ですから。そのためには、2つの要素が必要です。1つ目は、「失敗すること」です。人は上手くいっているときには、自分の方法を見つめ直さないものです。でも失敗すると、その理由を考え自分の思い込みに気付きます。だから失敗をたくさんすると、試行錯誤できるのです。

もう1つは、「自分が考えた方法」で失敗する、ということです。人から言われて上手くいかなかったら、「上手くいかなかった。では、別の人に聞こうかな」となります。でも自分で考えたことは、何かしら言語化できない拠り所をもってやっているこ
と。失敗して初めて「何がおかしかったのか」を考えることができます。この2つが満たされたら、自動的にまわっていきますね。

もともと子どもは大人から評価されたいんですよ。反抗する子も従順な子も、根っこは同じです。大人が望んでいることを無視できず、気になっていて、その反応の仕方が違うだけです。でも、大人の期待に応えたい。そうするために、絶対に自分のやり方をしないのです。自分のやり方では試行錯誤を伴い、失敗するからです。なので、みんな大人から言われたことを素直にやるのです。

私がこれまで、子どもが劇的に変わる手応えを得た授業というのは、子どもたちが出す答えではなくプロセスに大変興味を示して、やり方を見ていたときです。また、その場のさまざまな試行錯誤を集めて、正解・不正解を問わず、みんなで解き方をシェアしたりもしました。

子どもが「自分はこうやって発展させてみた」、という実感が持てるのは、まさに学びであり、その人自身が生きること、プロセスそのものですよね。それは学び場だからできるのです

   
おもに中学生を対象とした「数理思考力教室」。生徒はそれぞれの解き方を共有し、「それ面白い!」と褒め合う。正解を教えることを目的としない、いもいもらしい光景だ
 
 
 
 

大人が教えようとすると、子どもは自分を出さない

— そのような場でも、やろうとしない子どもには、どう声をかけますか。

井本 大人が子どもに「自由にしていいよ」と言ってもやらない原因ははっきりしています。大人がそう言いつつも、“できること”を期待しているからです。「子どもに自由にやらせた結果、できました」という大人のもくろみを子どもは知っているのです。子どもが自由にやるプロセスを見ずに、「子どもをこう変えたい」、という目的で褒めている姿勢を、繊細な子であるほどキャッチしますよね。そんなスタンスで褒めても全然通じない。また、最近は努力することが求められるポーズ社会です。大人だけでなく、子どもも努力する姿勢を見せなくてはならないので、辛いですよね。ますます自分らしさがなくなってしまいます。

— 大人が子どものプロセスを見ることが大切ですね。

井本 よく大人で、「子どもが間違えるのを恐れて、しかたないんですよ」と言っているケースがありますが、それは子どもに“できること”を求めるからです。その子自身は、「できるかできないか」という指標にいるのではなく、プロセスで発揮される「自分らしさ」のところにいるのです。

例えば、山登りで「頂上に登る」という目的を達成するだけなら、ヘリコプターでも行けますよね。でも、みんな自分の足で登る。以前、登山家の方とお話しする機会があったのですが、その方は「登山の目的は登頂ではない」とおっしゃっていました。登る途中で死と向き合うような経験をして、自分が生きている実感を得る。まさにそこなんですよ。

— 井本先生がおっしゃる「心がプルっとする」という体験もプロセスにおいて得られるのですか。

井本 そうですね。人はみんな無防備な自分を出すのが怖い。でも、無防備になってつい自分が出ちゃう、それが「心がプルっとする」感覚ですかね。窮地に立たされて自分で考えるしかないときに、既成概念がはがれて、素の自分にならざるを得ない、という生々しい感覚でしょうか。

三戸 僕は言語、数理、身体表現、コミュニケーションなどを扱う総合的な思考力教室を担当しているのですが、ある日のワークで、2人1組になり、それぞれ図形の描かれたカードをもち、互いに相手の図形が見えない状況で、言葉だけを使って相手と同じ図形かどうかを判断する、という授業をやりました。

大人だと、「平行四辺形」や「六角形」などという一般的な言葉で説明をしますよね。ところが小学生の生徒は「これをちょっとこういう風に傾ければ、蝶々に見える」と言ったんですよ。僕はこれにハッとしました。もし、その子が図形を表す言葉を知っていたら、蝶々という言葉は出てこない。その子は誰よりも「自分自身」の言葉で説明していたと思います。

井本 教材は大事ですよ。でも、その子が自分を発揮できるような教材でも、大人が「子どもの才能をこれで伸ばそう」というスタンスなら、子どもは自分を出さないですよね。間違えてしまうのが怖いから。それが大人から見ると「自発性がない」と見えてしまうのです。

大人も、もともとはプロセスに興味があったと思うのですよ。例えば、赤ちゃんがハイハイしようとして無駄なことばかりやって全然進まないのを見ても、かわいいな、と思いますよね。でも、しだいに親が子どもの将来について考え出すと、「必要なこれが身に付いていないから、できるように変えなくてはならない」と思い始めて、おかしくなっちゃう。子どもがいろんなことができるようになるのは、教えられてできるものではないのに。歩くことも、教えられてできるようになったわけではないですよね。

その子が自分らしく堂々と進んでいく中で、もし必要なものがあれば、勝手に身に付けるでしょう。だから人によってできることが全然違ってくる。できないことに焦点を当てるよりも、本人が夢中になっていることを存分にさせてあげればいいのです。これは、誠実な姿勢で教員を務めている方なら、みんなわかっています。発達支援の専門家の星山麻木さんをはじめ、私がお世話になっている方々も断言していることです。

— できるようにしようと、大人がいろいろ教えないことですね。

井本 例えば子どもが発する言葉から、すごい「気付き」をもらえることはないですか。あれが教育だと思います。つまり、変える対象は子どもではなく、大人のほう。

今から思えば、私が子どもを変えようとしていた頃は、まだ教員ではなかったと思います。自分が周りのおかげで、どんどん変わっていることに気づき始めてから、ようやく教員人生が始まりました。親子関係もそうではないですか。子育てが終わった方に「子どもを思うように変えることができた人は?」と聞くとほぼゼロで、「子育てして自分が変わった人?」と聞いたら、ほぼ全員手を挙げるのではないでしょうか。

 
 
 
 

授業は生徒が主役で、授業者は黒子

—「いもいも」を立ち上げたのも、子ども一人ひとりがもつ、ありのままの部分を引き出したい、と思ったからですか。

井本 「その子をそのまま見る」という姿勢は、栄光学園時代と変わっていません。いろんなご縁が重なって、現在の形になり、幸い優秀なスタッフにも恵まれています。

授業について、講師には「何かを解決しようとしなくていい」と伝えています。そうしようとすると、その子自身を見られなくなりますからね。例えば、攻撃的な言動をする子がいたら、その子がどうであろうと、「それはいけないことだから変えなくては」となるじゃないですか。でも、「その子は何を思っているんだろうか」とこちらの価値観を通さずに、その子を素で見ることです。算数の問題を解いているときでも興味をもって、その子が何をやっているのかを見ることです。シンプルに言うと、もしここに豆腐があったら、豆腐そのままを見ますよね。「ほかの豆腐と比べて柔らかいね。お前、もうちょっと硬くならないか?」なんて言って変えようとしません(笑)。それができれば、概ね大丈夫じゃないかと思います。

だけど、人は自分の期待や思いなどを通して人を見てしまいます。見ている側が「その子を変えなくては」と現状に否定的なら、その子は自信をなくします。本当はみんな心のどこかでわかっていることですが、将来のことや優劣などを考え出すと、感覚的にわかっていたこともできなくなってしまう。

— 教材開発で大切にされていることは何ですか。

井本 いもいもの講師も、まさに自分が無防備になって遊ぶように教材開発をしていますよ。「できるようにさせたい」のではなく、生徒が夢中になり、思わず心がプルっとなることを想像すれば、どんどんアイデアが湧いてきます。しかし、それを教材につなげる際に多くの人は足し算をしがちです。そうすると、教材のとおりに答えを出すことが正解になってしまいますね。それよりも、引いて余白をつくることです。余白があれば脱線もできるので、その子らしさが出せます。引くためには特別なハウツーがあるわけではなく、「こうしたら授業が楽しめるよね」という感覚が大切です。いずれにせよ、解ける方向付けをするのではなく、解き筋がなくなれば、混とんとして、自分を発揮するしかないよね、というわけです。

三戸 教材をつくるときには、「その子らしさ」が表れる教材になるように心がけています。例えば、市販のゲームは、誰とやっても終わった後に「このゲーム面白いね」となると思います。でも、いもいもの教材は終わった後に「○○さんのここが面白かったね」となるようにしたいのです。

先ほどの話にもありましたが、井本先生からは、「教材の味付けをしすぎないように」とよく言われます。というのも、僕は高校時代からお笑いをやっていて、人前でネタを披露していました。最初、授業もお笑いも「人前で話をする」という点で同じだと思っていたので「自分がつくった教材で、生徒を楽しませるぞ」と意気込んでいました。でも、全然上手くいかなかった。お笑いのようにステージから観客を楽しませる感覚だと、生徒のことが全然見られないのです。

そのときによく「主役は子どもで、授業者は黒子。授業者は目立ってはいけない」と井本先生からアドバイスを受けましたね。お笑い芸人などのエンターテイナーは、自分が主役。一方、授業では正反対。そこをはき違えていて、その感覚がなかなか捨てられなかった。また当時は、自分が考えた教材のみにこだわり、かつ「同じ教材は2度使わない」、というポリシーももっていました。でも子どもにとっては毎回違う教材をやるよりも、同じ教材でどんどん深めていくほうが楽しい場合もあるのです。授業はその場で楽しませて終わりではなく、その先があるのですから。

大量のネタを仕込むようにしてつくったその時期があったおかげで、現在では教材の数が1200を超えました。そのベースがあるので、今後もいろいろと授業を組み立てていけると思います。大量にある授業のネタがそのまま、いい教材になることはないですが、やってみないとわからないことも多いので、アイデアのうち1割くらい使えればいいかな、といった気持ちでつくっています。

— あくまで主役は子どもなのですね。

三戸 子どもたちの反応によって教材がどんどん面白くなることも多いです。例えばある授業で、A4のコピー用紙に、丸や三角、四角などの形を貼ってペンで付け足してお題の場面を表現する、というワークをやっているときのことです。ある子が丸や三角などの形だけでお題の場面を表現したのです。このワークは、どの順番で形を重ねて貼るかによって立体感が表現できるなど、僕が用意した教材より広がりがあって、面白いと思いました。結果的に、この教材は小学校低学年クラスから中学生クラスまで使いました。このように、幅広い年齢が取り組めるものは、本質的な面白さを突いているものだと思います。とてもいい教材だと思いますが、こんなことはほかの教室ではありえないですよね。

井本 最近は、さまざまなイノベーションや社会課題の解決が求められる時代ですが、むしろ子どもから解決策が生まれるのではないか、と思っています。現在の社会の閉塞感は、大人が勝手に物事を複雑に考えているからではないでしょうか。

行き届いた社会をつくろうと、あらゆるものを複雑にしてしまいます。でも、子どもは大人が思いつかないほどイノベーティブな発想をして、一方、大人はそれをどうすれば社会で使えるかがわかります。だから、大人と子どもが対等に向かいあえば、いろいろなアイデアが生まれるのではないでしょうか。くれぐれも、大人が子供を教える存在だと思わないようにすることです。

そして、いもいもの教室は、何も日本の教育を変えようと思ってやっているわけではありません。シンプルに授業に集中する。子どもたちが教材を喜んでくれてその結果何かが変わったら、うれしい。これまで学校の先生たちに向けた講座でたくさん話をしてきましたが、やっぱり私の場合は、授業を体験してもらったほうがいいですね。うそのないコミュニケーションができますから。

—「いもいも」では、さまざまな種類の授業がありますね。

井本 パズルやカード、体を動かす体験を通して学ぶ思考力教室、幾何学の根拠をひたすら考える数理パズル、檜原村で開催する森の教室があります。それらの教室すべてで、「このような力を身に付けさせよう」という思いはありません。ただ子どもたちの様子を見て、何をするのかを決めていくのです。

子どもが無防備にやったことを「面白い」と大人が褒める。ここには、それを子ども同士でも褒め合うベースがあります。ある不登校の子が週2回「森の教室」に通っているのですが、自分を発揮できる学び場としてそこで過ごすうちに、そのほかの平日は、学校に通えるようになったのです。不登校の子どもは決して社会と折り合いをつけたくないのではありません。自分を出す場がないので、大変苦しい思いをしているだけなのです。

本来学び場は、社会性を発揮する場ではないのですが、現在のカリキュラムでは、学校の先生方は多くの業務を抱えて大変で、一人ひとりに向き合うことがなかなか難しい。仕方がないことです。最近、東京都の教育制度改革で補助金が付くようになったので、これからは、認定されたフリースクールなどの選択肢も増えて、学びの多様化が増えるのではないか、とも思います。

三戸 僕が教えている生徒の中に、「いもいもは自分の知らない自分に出会える場」と表現した子がいます。「いもいもに来れば、何か面白いものに出会える」と思っているから、「これちょっと苦手」と思った問題でも、とりあえずやってみようと思えるのです。苦手意識があるものでも取り組んでみた結果、周りから「すごい!」「面白い!」などと言われたら、その子の自信につながりますよね。その経験があれば、どんなことでも見方を変えて、プラスに転じることができるのではないか、と思っています。

また、いもいもの授業の特徴は、問題を解決して終わるわけではないので、すごく盛り上がってスッキリして終わることもあれば、もやもやとしたものを持ち帰ることもあります。授業では、本当に「今、その場でしか味わえないもの」を経験するので、それらを無理に共有したり言語化したりせず、そのまま持ち帰ってくれればいいと思っています。その経験が、いつか言語化できるタイミングが来て、自分を知るための大きなヒントをくれるかもしれませんよね。

   
小学校低学年が参加できる「いもいも思考力教室」の様子。カードに書かれた言葉を組み合わせて文章をつくる。子どもたちがユニークな文章を読み上げ、盛り上がりを見せていた
 
 
 
 

相手ではなく、自分を変える

— 苦手と思っていたものが受け入れられた経験は、自信につながりますね。

井本 私がこれまで会ってきた子の中に、正直「こいつとは合わないな」という子もいました。それでも、「しょうがないな」と大目に見て、表面上は上手くやっていくことができました。

でも教員と生徒、上司と部下などの主従関係では、「お前はだめだ」と上の立場の者が決めつけ、我慢できないくらいの不安があると、相手を変えることができてしまうんですよ。こちらが受け入れるのではなくてね。

幸い自分は表面的に上手くできたのですが、それがまた本当に嫌でしたね。偽善者じゃないか、って。でも、あるとき考えたのが、自分は相手のこの部分を嫌だと思うのに、ほかの人から見れば、それがいい部分に見えるのはなぜだろう、と。すると、嫌だと思う原因が相手ではなく自分ではないか、と気付けたのです。だから生徒に対してイライラしたときには、そう思う自分と向き合って、むちゃくちゃ苦しみました。

そんなとき、テレビ番組で、マザーテレサのインタビューを目にしたのです。ちょうど亡くなられたときの追悼番組だったかもしれません。その中で忘れられないのが、「ここに運ばれてくる貧しい方、病気の方が、本当にいとおしい。それは自己犠牲の心ではない。その人たちの中にイエス・キリストが見えるから、本当に幸せなんだ」という言葉でした。私はそれを、「大好きな人といつも一緒にいられてハッピーなこと」、と解釈しました。そして、自分もどの子を見ても「最高にかわいいな、大好きだな」と思えるようになりたい、と願ったのです。その子を受け入れて、その子の力になる。それは偽善ではなく、心からの叫びにも似た思いでした。

人間は心の底から強く願い意識して行動すると、自然と周りの環境がその方向に行く……ということがありますよね。きっと、常にそこにアンテナを張っているからでしょう。私の場合、時間はかかりましたが、授業の方法や生徒との関係など、楽しいと思えるようになりました。本当に、15年くらいは苦しかったですよ。でも「指導しなくてはいけない」、ということにとらわれなくなり、気持ちが楽になりました。教員は楽しい、やっていてよかった、と心から思うようになれたのです。

だから教育に携わっている人には、簡単なことではないけど、子どもを変えようとするのではなく、子ども見る自分を変えたほうがいいよ、と伝えたい。そうすれば、めちゃくちゃ楽しくなるよ、と(笑)。

— そのお話は、教育だけでなく、コミュニケーション全体について当てはまる気がします。

井本 人は本来、無防備な他人を見たら、思わず「いいな」と思ってしまうものではないでしょうか。その象徴が、子どもです。「子どもは純粋でいいよね」という言葉が真理じゃないですか。だから、いもいもでも、何かを褒めるのではなく、その子が無防備にやったことを「面白い!」と受け入れる。今は、子どもたちやスタッフの間にも、そういう文化が育っていると思います。

不登校の子の中には、無防備な自分を出したら周りから叩かれた、という経験をもっている子もいます。そうした子が、いもいもで自分を発揮して周りから受け入れられれば、うれしいですよね。教育者が諸々の評価軸を取り払ってみたら、「やっぱり人っていいな」と思えるはずです。そしてそれをもって、子どもを知ろうとすると、そ
の子は変わります。

私は児童養護施設に20年以上毎週ずっと通っていて、繊細な子や自分に自信がない子にたくさん出会いました。中には、相手が自分のことをすごくネガティブに見ているな、と思ったら、自分からわざと嫌なことを言って、攻撃的になる子がいました。「相手が自分を嫌うのは、自分が先に嫌なことを言ったから。自分がダメな奴だから嫌われたのではない」という心理です。また別の子は、私に本当によくなついてきて愛らしかったので、あるとき「君は本当にいい子だね」と言ったら、そこから2年間、口をきいてくれなくなりました。わけがわからなかったですよ。自分が受け入れられてうれしいはずなのに、と。でも、その子の心の中には「自分は、本当は受け入れられるような子じゃない」という思いがある。人から切り捨てられるのが怖いから、自分から離れていくのです。

人は子どもの頃から大人の期待に応えようとして、本来の自分を押し込めがちです。だから、本当の自分がさらされるのは怖い。だけど本来学びの場というのは、社会性が求められないはずなので、自分を出すことができると思っています。

私が授業を対面で行いたいと考えるのは、思わず出た自分の無防備な行動に対して、周りの心が動かされ、それによって、勇気がもらえるからです。でもこれは、「なんでも許可する」とは別で、特に低学年のクラスでは、大人がきちんとイニシアティブをとることが大切です。中には、自分の強いストレスを過激な行動によって埋めようとする子もいます。そうすると、周りが怖がって萎縮し、その子が中心になって学級崩壊のようなことが起きます。なので、「ここはこうだよ」と示すためのルールはあったほうがいい。でも、それを言語化するのではなく、教育者が振る舞いで示すことですね。

   
体を使ったワークも。講師はルールを伝えて進行するが、子ども同士が自然に知恵を共有し、協力し合う空気が生まれていた
 
 
 
 

大人も授業を通して無防備になる

— 先日、いもいもの「大人のコミュニケーション講座」に参加し、カードゲームを通して、いろんな人と出会いました。でも、無防備になれたかというと、自信がないですね。

井本 あれは、みとけん(三戸氏の愛称)のアイデアの宝庫の中から、授業でやっていけるものを出題しました。以前、教員の研修で私がやってみたものです。無防備になることは、そこで安心して心を全部許す、というより正解を求めない発想で、わけがわからなくてもその場で自分を出さざるを得ない、という仕組みです(笑)。

三戸 現在、鎌倉市で大人の方を対象に、対話と表現、という2つのプログラムを行っています。表現のプログラムでは、いもいもの授業で使っているカードゲームや体を使ったワークを行っています。今後は、企業研修などの場でも大人向けのプログラムができたらいいな、と思っています。

井本 これまでいろいろと話しましたが、学校とは、本来、一番いい学びの場だと思っています。1年間という長いスパンで見てあげられることはたくさんある。部活も含めて、ずっと一緒にいられるじゃないですか。弱い子も強い子も含めて絆がつくれるのに、勝ち負けの概念が入ってくると、「お前は邪魔だ」みたいな話になってくる。本当にもったいないですよ。

今は学校でも優劣は無視できないし、「できなくてもいいよ」という言葉が「無責任」と受け取られかねない。でも、できるようにしようと思って鍛えても、みんながそうはいかない。受験で点が取れるようになるのも、単純に傾向と対策を教えているだけで、その人自身の力が付いたわけではないのです。残念ながら、今は鍛えれば数値が上がるようなものばかり大切にされていますよね。未来や社会への不安から「先をコントロールしたい」という気持ちが強いんでしょう。「こういう準備をしたら、先は良くなる」というのは、思い込みです。そんなものを考え始めたら、不安感から超非論理的であり得ないことを本気で信じてやってしまうことになりかねない。

これが本当にいいかどうかわからないけど、とにかくやらせなきゃいけない、と進学塾に入れてしまう親も少なくないですよね。そこで学費が年間200万円くらいかかって、成績が上がらなくても塾を訴えないじゃないですか。それはどこかで、塾の効果が絶対的でないことに気付いているからではないですか。

例えば栄光学園の生徒の両親は、学歴が高い人が多いので、学歴社会からこぼれることを怖い、と思ってしまうのではないでしょうか。一方、私の家系は、大学を出た人がほとんどいない。兄弟から「東大、すごいね」と言われますけど、何がすごいかわかっていない(笑)。でも、みんな自立して魅力的に生きているから、成績の良し悪しは、将来の幸不幸に影響しないことがわかっているんですよね。もし自分の周りがみんないい大学を出て有名な会社で働いていたら不安だったのかも、とも思います。

でも、どうやっても将来、子どもは困ります。どうなるかなんてわからないから、やっぱり見守るしかないですよ。私も、菩薩さまのように達観して見られるわけではないので、不安で、イライラすることももちろんありますが。

— もう一人の自分が、イライラしている自分を見つめているのですか。

井本 そうですね。向き合っています。先ほどお話しした、20代の苦しかった頃に、それを自分で原稿にしていました。「どんな怒りも正当化できない」という言葉にして、あとで振り返られるように。当時、ちょうどサッカー部のコーチもしていたので、コーチング研修の講座で「人を見て嫌だな、と思うのは、自分の中にある自分が嫌だと思う要素を相手に見たときなんですよ」という話があり、本当にそうだなと思いました。

今は子どもに対しては、何も問題を感じなくなっているのですが、大人のずるさやひどさに対しては、許せない自分がまだいます。40歳を過ぎたあたりから、大人に対しても、子どもと同じように見つめたいな、と思うようになりました。それから、いもいもで、大人の講座も開催することになったので、自然とそういう方向に進んだのかな、と。実は大人のほうが、ありのままを受け入れてもらえる場を必要としているかもしれない。「もう大人なんだから」とつたない部分を受け入れてもらえないし。

だからこそ、いもいもは居場所じゃなくて、学び場なんです。居場所は「ここは安心・安全ですよ」というイメージですが、学び場は自分と向き合う場だと思うのです。だからこそ、一見もやもやした「気持ちの悪いもの」を置くのです。本来なら怖くて向き合いたくないものに、向き合ってもらいます。ここは自分を出しても大丈夫ですよ、と。そうすると、怖くて見られなかった自分を見ていくことになると思います。

— まずは大人が自分と向き合うことですね。

井本 そうですね。親子関係においても、私がこれまで生徒に対してやってきたことを、やらざるを得なくなると思います。今までイライラをぶつけていたけど、何か違うな、と。親は子どもが自分の大切な存在だからこそ、「ここを変えてくれるんじゃないか」と自分の気持ちを投影してイライラする。それは他人の子にはできないので、尊い関係だと思います。私はそれを生徒に教えてもらったので、ありがたかったですよ。

— イライラを子どもにぶつけてしまう親からすれば、井本先生と子どもたちの関係がとても素敵に見えます。

井本 親子関係は、とても距離が近いですからね。私に子どもがいたら「勉強しろ!宿題しろ!」と怒っていたかもしれないですよ。

— ちょっと想像できないですけどね(笑)。

   

いもいも

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