吉⽥秀雄は、1903(明治36)年11⽉、福岡県の⼩倉で⽣まれました。
両親と兄、⼆⼈の妹の六⼈家族でしたが、少年時代に⽗親を失い、養⼦縁組に出された彼の暮らしは、平坦なものではありませんでした。
しかし、⽗親譲りの気⾻あふれる性格と、養⽗⺟のもとから通った東京帝国⼤学で⾝につけた商業センスをもとに、やがて⼀時代を築きあげていきました。※()内は年齢
⽇本電報通信社(現電通)に⼊社
地⽅内勤課に配属される
光永社⻑に随⾏し、満州国を視察旅⾏
常務取締役に就任
商工省の勧告に基づく広告代理業整備に尽力
全国186社を12社に整理。電通は全国の16社を吸収
電通などを中心に「民衆放送」(現・東京放送)の開設を申請。吉田はまとめ役として、日本の民間放送の開始にいち早く取り組んだ。
電通第4代社長に就任
広告電通賞を創設
本社、各支社にラジオ広告研究会を新設
PR活動の研究・連絡組織「弘報連絡協会」設立に尽力
「日本新聞広告業者協会」の初代幹事長に就任
9月1日午前6時30分、名古屋の中部日本放送が日本初の商業放送として第一声をあげ、同日大阪の新日本放送も放送を開始。吉田が精魂を傾けたラジオ東京は、12月4日に晴れて本放送を開始しました。
広告料⾦の「逓減料率制」を提唱
新聞雑誌発行部数公査機関「ABC懇談会」創立
「株式会社⽇本電報通信社」から社名を「株式会社電通」と改める
国際広告協会(IAA)副会⻑(極東地区担当)を委嘱
マーケティングを導⼊した⽶国の広告代理業の在り⽅に強い影響を受けた吉⽥は、「広告は科学にたった芸術である」と考え、広告が単なる勘や名⼈芸ではなく、科学に裏打ちされた合理的な経営活動であるべきだと主張していました。吉田はマ−ケティングの可能性にいち早く気づき、積極的に取り組んできた先駆者の⼀⼈でした。
「JIAA」(日本国際広告協会)を発足
アジア広告会議を開催
⽶国フォーチュン誌が「広告の⼤⻤」と題して吉⽥の業績を紹介
「国際広告協会(IAA)「マン・オブ・ザ・イヤー」を受賞
「全日本広告協議会」が発足。理事に就任
官邸で池田首相と広告問題について懇談
次官会議で広告の文化的・経済的使命を力説
1963年1⽉27⽇逝去(59歳)
従四位勲二等瑞宝章を贈られる
2004年5⽉29⽇より11回にわたり「フジサンケイ ビジネスアイ」に掲載された加来耕三著「承継の時 - 中興の祖の研究「電通」第4代社⻑ 吉⽥秀雄」を、吉⽥秀雄記念事業財団40周年にあたり改題・加筆したものを以下からダウンロードできます。